Nさんの自己弁護への疑問

ワールドメイトを中傷・罵倒して、裁判でその非を認めて謝罪し、和解に応じてもらったNさん

 そして、『ワールドメイト陳述書③』へ。

これまで紹介してきた、ワールドメイト側の2つの陳述書(ワールドメイト陳述書、②)に対し、Nさんは新たな陳述書(Nさんの陳述書)を書きました。驚くほどの長編ですが、どうにも苦しい反論が多い。

これに対して、またも完全反駁を加えたのが『ワールドメイト陳述書③』です。

 Nさんが苦しい言い訳をしたため、かえって完膚なきまで論破されてしまい、自らの傷を広げている印象を、私は受けました。

 

 まずは、Nさんへの自己弁護についての反論です。

 

==========以下、引用==========

 

 Nさんは、自らの行為を正当化するために、「自己弁護に努めるのは当然のことです。」という奇妙な論理を持ち出しました。

 しかしながら、私がNさんの「自己弁護」について、「ワールドメイト陳述書①」(甲号証番号が入っていましたが、読みやすく置き換えました。以下同じ。)において記載した内容は以下のとおりです。

 

 『Nさんに言わせれば、公のインターネット掲示板でNさんが深見教祖を「バカ」「ノータリン」等罵倒したことまで、「マインドコントロールで苦しみ悩む会員の方や元会員の方の呪縛を解き放つため」(Nさんの陳述書38頁6行目〜9行目)だったとのことで、しかもこうした中傷を「瑣末な発言」(Nさんの陳述書3819行目)であると自己弁護しています。

 しかし客観的に見て、どのような目的であっても、他者を公の場で罵倒することが正当化されるはずがなく、良識ある大人の発言とは思えません。その後、Nさんは、これらの中傷について、自ら謝罪する和解案に応じたため、当教団もそれ以上事を荒立てず和解したのですが、和解成立後10日も経たぬうちに、再びインターネット(紀藤正樹弁護士のサイトに設置の掲示板)で、「WM側も和解してるんだから、私のカキコは侮蔑的表現以外には問題がないということ」「私は別に『バカ深見』とか『ノータリン教祖』なんてことを主張したかったわけではありません。そんなことは枝葉末節であって、どうでもいいことです」等の自己弁護を始めています。こうした発言をどう見るかは個人の感覚次第でしょうが、私にはNさんが、法廷での謝罪に全く重きを置いておらず、訴訟を終わらせるために誠意のない謝罪を行い、訴訟が終結したから自己弁護に走っているようにしか見えません』

 

つまりこれは、Nさんが、自らが謝罪したはずの名誉毀損発言について、「瑣末な発言」と言い放ったばかりか、その背景を滔々と説明することによって、あたかもそれらの違法行為にあたる発言が、正当化されるかのように述べていることを指摘したものです。

(ワールドメイト陳述書③ 12頁)

 

==========引用終わり==========

 

 Nさんは、「自己弁護するのは当然」と言います。しかし実は、前提として、“Nさんがワールドメイトを中傷・罵倒して、裁判でその非を認めて謝罪し、和解に応じてもらっていた”という事実があったことが分かります。

 そしてNさんは、和解してもらった途端、謝罪したはずの自らの中傷発言を「瑣末な発言」と正当化し始めたのです。

 この事実を、どう考えるべきでしょうか。ワールドメイト側の指摘する内容は、素直になるほどなあと思えます。

 

自ら非を認めて謝罪したはずの言動を、今になって正当化するNさんの態度

 そして、ワールドメイト側は、その基本的な立場を、はっきりと述べます。ワールドメイトのスタンスは一貫しており、ブレがないように思います。

 

==========以下、引用==========

 

 当教団がNさんの誹謗中傷発言に対して訴訟を起こしたのは、Nさんが「言論の自由」を逸脱し、罵倒、侮辱にあたる発言を長期にわたって行ったからに他なりません。こうした発言は明らかに名誉毀損にあたり、それらは民法刑法に定められた違法行為であることは言うまでもありません。

(ワールドメイト陳述書③ 2頁)

 

 もちろん、誰にも「言論の自由」があることは当然のことであり、それは憲法に定められた基本的人権のひとつです。当然ながら、Nさんがどのようなお考えを持ち、どのような問題提起をされようと、自由であることは言うまでもありません。当教団は高度で純粋な宗教性を追求する宗教団体ですが、基本的人権を尊重し、法の精神を遵守し、健全な社会性を維持することもまた、誠実に追及しております。たとえ、Nさんが当教団の利益に反する発言をしようと、一人の退会者の意見として、「言論の自由」の範囲を逸脱しないものである限り、その法的な責めを求めることはしないのは当然のことです。

 当教団が追求したのは、Nさんの「違法行為」についてであり、Nさんも自らが「違法行為」をしたという自覚があったからこそ、謝罪をしたものと信じておりました。しかしながら、謝罪によって訴訟を終結させるや、態度を一転して、自らの違法行為が「瑣末なこと」であるとして、その発言が当然であったかのごとく言うことに、少なからぬ驚きを覚えた次第です。

 先に引用した、私の陳述書における発言をご覧いただければ明らかなとおり、Nさんの「自己弁護」とは、Nさんが自ら謝罪したはずの明らかな違法行為について正当化しようとする様子について述べたものです。

(ワールドメイト陳述書③ 3頁)

 

 自ら非を認めて謝罪したはずの言動を、今になって正当化するNさんの態度は、不誠実そのものといえましょう。その言動は、法の精神を踏みにじり、調停にあたり和解の手続きをした裁判所の努力をないがしろにするものです。

( 同上 )

 

==========引用終わり==========

 

ワールドメイトへの罵倒(違法発言)を「些末なこと」と言い放つNさん

 ところがNさんは、自ら行なったワールドメイトへの罵倒を、「瑣末なこと」と言い切ります。ワールドメイト側は、Nさんが陳述書で発言した内容を挙げて、精密に反論しています。皆さんはどう思われるでしょうか?

 

==========以下、引用==========

 

 Nさんは訴状に記載された24箇所の違法発言(※サイト主の注記:Nさん裁判において、ワールドメイト側が、Nさんが行なった不法行為として挙げたもの)について、「それらは全体の比率でいえば、おそらく0.0数%程度(か、それ以下?)の分量に過ぎません。そのため、私は「瑣末な発言」と述べたのです」(4頁7行目〜9行目)と全く的外れなことを述べていますが、これはNさんの認識の誤りを象徴する記述です。

 もし、ある人物が公然と他者に対してひどい侮辱を加え、名誉毀損で訴えられたとします。その人物が、「私は他にも何時間も演説をしている。発言の全体の中で、名誉毀損にあたったのは数箇所だけである。それゆえに私の名誉毀損は瑣末な発言に過ぎない」と主張したとして、客観的にその正当性が認められるものでしょうか。

 いわゆる「Nさん裁判」で争点となったのは、あくまでNさん自身の発した違法行為発言を巡ってのものであり、それらについてNさんは謝罪し、和解が成立したはずです。その他の発言は、これら発言の名誉毀損性を阻却する要因として主張されたこともなく、またそうなり得なかったという事実しか残っておらず、裁判の経過と全く関係のない話です。

(ワールドメイト陳述書③ 4頁)

 

==========引用終わり==========

 

 ワールドメイト側が言うことは、当然の内容だと思います。Nさんは懸命に自己弁護しているように見えますが、やはり「いや、それは無理でしょう」と、第三者の私にも見えてしまいます。

 

 

言論の自由の範疇を超え、違法行為であると判断されたNさんの発言

 裁判で非を認めて謝罪しておきながら、和解が成った途端「あれは瑣末なことだ」と主張し始めるというのは、やはり、謝罪を受けて和解で終わらせたワールドメイト側だけでなく、その労をとった裁判所をもないがしろにする態度に、私には思えます。

 

 Nさんはここにいたって、「一連の投稿で、自分が主張したかったことはこうだ」と、新たに「3つの主張」を持ち出し、ワールドメイトを攻撃します。そして、ネットの掲示板に書き込んだいくつかの書き込みについて、それを「ワールドメイトが訴えの争点にしなかったから、ワールドメイトも自分の主張を認めている」のだという、理解不能な主張を展開し始めます。

 まるで子供のケンカのような言いがかりに、私には思えてしまいます。 

 

 Nさんの「3つの主張」もまた、完膚なきまで論破されるのですが、まずはNさんがいう「ワールドメイトも、自分の主張を認めた」という論理が、成り立つのかどうか。

 これについて、ワールドメイト側陳述書③は、ぴしゃりと核心を衝いています。

 

==========以下、引用==========

 

 当教団は基本的人権を真摯に尊重しており、「言論の自由」の範疇にあると判断される発言については、たとえそれが真実でないとしても、裁判にまで訴えることはしないというただそれだけのことです。

 そして、「Nさん裁判」で争点となった発言については、ひとえにそれらが明らかに「言論の自由」の範囲を超え、違法行為であると判断されたため、止むを得ず訴訟に訴えたものです。Nさんのその他の発言の、「真実性」とは全く関係のない話です。

(ワールドメイト陳述書③ 6頁)

 

==========引用終わり==========

 

 当たり前のことですが、“訴訟の争点になってさえいなければ、全て「真実と認められた」ことになる”、などという話は、どこの世界でも成り立ちません。ワールドメイト側の反駁は、素直に「そりゃそうだ」と頷けます。